トップページ
和尚山
整備された登山道と花道公園と、花立池は、
江戸時代の1651年に、上拝田村、庄屋に居住していた
『 安倍義知 』先生が着工し、長男である
『 安倍義種 』が、1666年に完成させた、
駅館川が、独特な地理的形状( 谷間に流れる )の
河川である為、川は、目と鼻の先に流れてはいる
ものの、田畑へ水利を得る事が出来なかった
( 高低差により理論上は無理 )為、自身の
全財産を投げうって、その建設にあたった。
|
|
座禅岩( 座禅石 )です、山頂の西側には巨石が
横たわっている、『 岩板 』である、その昔、
西暦700年頃、国東半島『 六郷満山 』で修行で
徳を積んだ僧侶『 法蓮 』がこの岩の上でも
修行を積んだらしい、法蓮は医術と祈祷術の
双方で宇佐の民を救ったと語り継がれる、
この岩からは西方向の眺めに優れる、
向かい合う山は『 妙見山 』です、代表的な
建造物として『 香下神社 』と『 鷹栖観音堂 』が
在り、この岩の上から見えます。
|
|
座禅岩から見る宇佐市、この岩からは西北方向の
眺めに優れる、向こうに特徴的な台形状の
八面山が見え、お隣の中津市を一望できる、
また北には周防灘が見渡せる、快晴の日は
『 天の見晴らし 』である。
|
|
大分県、宇佐市『 和尚山 』の『 座禅岩 』は
国東半島 『 六郷満山 』で修行と徳を積み
『 八幡大菩薩 』となった高僧、法蓮の
最終解脱の舞台であった!
『 和尚山 』は、いにしえの時代には
『 化生山 』とよばれ、その部族の民が
認めた者が『 シャーマン 』らが
( 恐らく宮司さんだと思う )に、抜擢され
干ばつ回避の『 雨ごい 』や
『 五穀豊穣 』を、御祈願というよりは、
むしろ御祈祷と言う表現が相応しいと
思う、行われていたらしい。
そして古き神代が過ぎた頃、国東半島
『 六郷満山 』で修行を積んだ
僧侶『 法蓮 』が、宇佐市、そして
六郷満山の民を守るべく、
ここ『 和尚山 』の『 座禅岩 』に
民の願いを叶える為、その姿を
現したのである!
故に 『 和尚山 』の歴史を紐解くには
『 国東半島 』無しでは語る事が
少し難しい関係が有ります!
法蓮はこの『 和尚山 』の『 座禅岩 』で
悟りを開き医術と法術の双方を持ってして
疫病や飢え貧困から民を救ったという、
その功績が、後に認められ、朝廷により
703年に山野:40町を、また721年には、
一族に、宇佐の姓を賜った。
その、4年後に『 法蓮 』の神佛への信仰が
朝廷に認められ、天皇の勅令により
『 宇佐神宮 』が創建されるに至りました。
そして時は過ぎ、江戸時代の、1651年に、上拝田の
『 安倍義知 』先生が、和尚山の登山道を完成させ
その長男『 安倍義種 』氏が、全財産を投げ打って
和尚山( 麓 )の『 花立池 』の造成に着手し、
西暦: 1666年に完成に至る。
宇佐市( 皇后官 筑紫豊前国 宇佐郡 )の行政は、
大昔から、民に何も手を差し伸べる事は
なかったらしいです、そして、
米が収穫できる様に、なった事を知ると、我れ先に
と云わんばかりに『 租税の徴収 』に、
やって来て税を『 取り立てた 』と
聞かされております!
現に『 水利 』で名をはせた
『 南 一郎平 』は、日田の豪商『 広瀬久兵衛 』や
島原藩の公金を借用し、ついに、工費が底をつき、
明治新政府の、長崎総監府に援助を直訴した。
総監府は日田県知事の松方正義に調査を命じ、
その結果水路掘削に対して援助をおこなった。
( 宇佐郡は払わなかった )
宇佐郡は、税金だけは、厳格に処理した。
1870年( 明治3年 )に水路は通水したが、
残りの工事には、国と宇佐郡は、一切、
援助をせず『 安倍義種 』の時と同じく
南 一郎平は、全財産を投じて
1873年(明治6年)に完成をみた。
ここ、大分県 宇佐市には
『 世界に誇れる 』素晴らしい史実がある。
政府は『 利をむさぼり 』決して援助はしない。
宇佐市( 皇后官 筑紫豊前国 宇佐郡 )今も昔も、
変わりなく
未来を知るには過去を知れ!
『 税で家は建つ 』が『 米で家は建たず 』
いつしか、それは『 百姓 』と罵られる様になった!
地元では有名な史実である。
歴史の『 光 』と『 影 』、本来ならば、影の部分と光の
部分、両方を重んじて、しかるべき、真実を正しく
知ってこそ未来の扉は開く 陰ひなたなく
歴史は繰り返される。
|
|
|